歴史的に仕方がない
江戸期の江戸は総人口も構成比も時代によって変動するが概ね「町方支配」が57~60%。
飢饉があった天保年間には浮浪者が3万4千有余を数えた。
また、同時期の人口総数約130万人に対して「諸大名所属武士」が36万人、幕臣(旗本御家人)が26万人
神官僧侶が5万7千人、町人が55万人で百姓が4万3千、残りが支配外(浮浪者やエタ非人)
現代と同じでプロパーの江戸住民は全国から寄せられる食文化や食習慣、これらは参勤交代によって
全国から齎されるわけで地に根差した食文化が発達しにくい構造だったわけ。
江戸時代で言えば「醤(ひしお)」が江戸の主な調味料だったわけだが江戸の中期に上方から「醤油」
が持ち込まれると完全に駆逐され醤油がメインになった。そのご上方の醤油屋が産地に近い千葉に
工場を建設して文字通り席巻した。酒も然りで上方の「清酒」が「下り酒」といわれ席巻した。
食文化でも同じで平成以降、東京は関西風(表記は京風などが多い)が席巻状態が続いていて
丸亀製麺などの出汁も(どちらかといえば)関西風で、それが普通に受け入れられている。
西京漬けなども、本来は京都の西京味噌なんだが白味噌で付けたものならなんでも西京漬けとして流通してる。
上に挙がっているような江戸、または東京固有のモノもあるが特に上方のソレと比べるとバチカン市国と
アメリカほどの差がある。
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