戦国時代の食事・1日2食1日に米を5合


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001 2022/01/20(木) 18:36:13 ID:c4D6KWtXkY
現代人の多くが、朝昼晩の1日3回の食事を摂りますよね。しかし戦国時代は特別なことがない限り、朝昼の1日2回の食事でした。これは戦国大名や武将、庶民まで共通しており、現代のような1日3食の食事回数が普及し始めるのは江戸時代からと考えられています。

もちろん戦国時代にも1日3回の食事をする者はいました。それは城や砦などの重要拠点の守備に欠かせない夜間警備をする任務を与えられた者たちです。
彼らは翌朝まで体力が持つように夜20~21時頃に食事をしていました。戦いに明け暮れたイメージのある戦国時代なのに1日2食で体が持ったのか、と疑問に思ってしまいますが、食事量が多かったようです。

戦国大名の中には1日に米を5合も平らげた人物もいるといいます。5合といえば、約750g(1合で約150g)、炊飯すると1合あたり約350gになるため、実に1日に1.75kgも米を食べていたことに…。これならば1日2食でも十分だと言えるのではないでしょうか。
現代人がご飯というと「白米」を思い浮かべますが、戦国時代にとってのご飯は「玄米」でした。

玄米は籾殻を除去しただけなので、白米のように精白されておらず、1粒1粒の色が褐色を帯びています。この色のついた部分は、ぬか漬けにも利用される「糠」であり、白米と比較すると、ビタミン・ミネラル・食物繊維を豊富に含んでいるため、健康に良いものでした。ちなみに調理は玄米にヒエやアワ、キビなどの雑穀類やイモ類などを混ぜあわせていたと考えられています。
https://sengoku-his.com/12...

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002 2022/01/20(木) 19:17:39 ID:z90f/QMecI
一食あたり牛丼並盛3杯半、コンビニおにぎりだと9個弱の計算です。

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003 2022/01/20(木) 20:00:25 ID:BnqnqliCh6
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
(中略)
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

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004 2022/01/20(木) 21:04:36 ID:AoMGboo2yY
精米が穀物の中で一番栄養がないので
病弱な将軍がいたのは雑穀を食わなかったせいだと思う

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005 2022/01/20(木) 23:09:27 ID:jm7xFl8nAY
玄米じゃないですよ
今でいう8分つき程度に臼に入れて杵でついたお米ですよ
玄米だと炊飯に薪がたくさん要って炊いたご飯も美味しくないですからね
どこの家にもあった臼に玄米を入れて杵で軽く精米していたんです
戦争中は一升瓶に玄米を入れて棒でつついて精米をしていました
どんな時代だって美味しいご飯を食べたいのは誰しもの思い
完全に白米にするには時間も労力も要るので玄米のゴワゴワ感が無くなる程度に精米はしていました。
玄米を食べていたとか言うような変な歴史家に騙されないようにね。

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006 2022/01/21(金) 00:24:14 ID:9WQACp9RjQ
ご飯と味噌汁にオカズが漬物だけで食ってみたら、一食でご飯二合とか平気で食えた
肉体労働者ならそのくらい食わなきゃ持たない

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016 2022/10/25(火) 16:25:02 ID:Wu2.nbZj4k
昔は移動が徒歩で30キロくらい平気で歩いたらしい
エネルギー源は米、

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017 2022/10/26(水) 00:13:10 ID:mqCdvDMBP.
今の様に電波時計は無い。
日の出で1日が始まり、日の入りで一日が終わる暮らしをしていたのだから現代とはそりゃ食事サイクルは異なる。
昔の日本人は2食生活でひもじかったというイメージは間違いだった事が分子遺伝学や発掘考古学の分野から分ってきました。
その反面、地球規模の寒冷期にあたる時期は作物が取れず、いずれの地域においても戦争や紛争が多発してた事は各地域の歴史年表に照らし合わせてみても合致していることが注m

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018 2022/10/26(水) 08:43:25 ID:vH0GAkX1Nc
>1日3合が概ね成人一人の消費量とされているので、1石は成人1人が1年間に消費する量にほぼ等しいと見なされ、示準として換算されてきた(1000合/1日3合で333日分)。面積を表す日本の単位である反は、元は米1石の収穫が上げられる田の面積として定義されたものであった。

文献で最初に記載されている俵についての記述は、平安時代のもので5斗で1俵とするという規定が残っている。この時代の斗量は現在とは異なり、現在の定説では、当時の1斗は現在の0.4斗で、当時の1俵は約30 kgである。
 戦国時代から江戸時代の1俵はおおむね2斗から5斗の間で時代・土地ごとに異なり、例えば幕府は1俵を3斗5升としたが、加賀藩の1俵は5斗であった。またそもそも俵自体にも、四斗俵や六斗俵などいろいろなサイズがあって、規格が一定しておらず、俵が単位として統一されたのは明治時代で、1俵は約60 kgとなる。1俵は労働者一人が担いで運ぶ量であり、2俵は馬一匹の積載量であったため、米の出荷・保管・輸送に便利であった。

「石」と「俵」はどちらも米の量であるが、一石は兵一人が一年に食べる量とされて軍事動員力を示す石高制の基礎単位、俵は単に米を流通のため包装する単位で、そもそも性格が異なる。江戸時代の武士の収入には「石」と「俵・扶持」の表記があるが、領地を与えられ、そこから収納する石高の年貢を収入とする建前の上・中級階層が「石」、領地を持たず、米の現物支給を受ける軽輩の収入が「俵・扶持」で表されたのである(蔵米知行)。

#米農家やってた大正生まれのジジババは毎年米が実ると1人当たり3俵分を自宅にストックしてあとは売ってた

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