私は思うのですが。。
人間同士でも、相手に『ついて』知るのと、相手『を』知るのとでは違います。
他者に『ついて』の認識は、『それ』という事物についての知識と同じカテゴリーに属し、
他者『を』人格的に知るという事は単なる知識ではなく、『信』ということなのです。
つまり人格を人格として知るということは、単なる自然科学的かつ無機的な知識に
よるのではなく、心と心の触れ合いなのです。別に哲学を気取る訳ではありませんが。
こんにち、ネットの発達した社会では、ともすれば心と心の触れ合いが忘れられがちです。
明和を見ればお判りでしょう?
心の触れ合いなど微塵もありません。言葉遊びが延々と続き、そこで得られるのは
無機的な虚しい情報ばかりです。SARO君の蛙などは言葉遊びの最たる物でしょうか。
だから私たちもSARO君に『ついて』、単なるネット上の虚像として認識すれば良いのです。
人格『を』知ろうとするから文句も言いたくなる訳で、虚像として無視すれば無問題でしょう?
SARO君は何者かの『フリ』をしている無機的な架空の人格なのですから。
架空の人格であるSARO君は何万円もする料理を不味いと言い、
ミシュランガイドを否定し自分の編集する提灯本(太鼓持ち本)を良しとする。
ネット上だけに存在する虚像だと思ってあげれば良いと思います。
返信する